イノセンス論。最終考。だと思う。
やはり他者との対話の中から真の知が生まれるのはソクラテスの時から解りきっていた事であって、
そう言う観点からみて自分の学校の先生との討論はとても有意義なものになり得る。
もともと先生に何故なりたかったのかを彼らの視点で考えた時
生徒との対話は決して嫌なものではない
という決論にいたり、無理やり尻を叩いてでも見させた。
「バセットハウンドの多用とイノセンスにおけるメインテーマ
[プレフィジカルな愛は存在可能か]の背反事項の混在化から見るオシイの苦悩」
題名はかっこいいが要はこう言いたい。
「オシイ自身、バトーと素子の愛に疑問を投げかけてる」
のではないかと。
ウチの教員曰く
「オレはああいう前肉体的な知覚と知覚同士の愛って信じられないんだよね」
だそう。(ちなみに未婚だが、それは置いといて。)
自分自身に至っては恋愛経験など皆無な俺から言うのも難だが
確かにそう思う。
体ナシの愛ってありえるんですか?って。
オシイ自身の迷いはバセットの多用に凄く現れていると思う。
奥さんは優しくオシイを包んでくれるだろう。
母性的な人間でなければ彼のパートナーは務まらないだろうし。
やはり体ナシには生きられない。
それはただ技術が我々の認識を追い越していくだけに過ぎないかもしれないのだが・・・