りとすら

書きたいことがあんまりありません

イノセンス―否定論―

あえて否定してみることによって
その作品が逆説的に素晴らしいことを証明できる事もあるだろう。

というわけで、否定してみようと思う。
・・・

まず、
オシイよ。作品のメッセージはもっと絞ってくれ。
と言いたい。

いくら自由だからって、やる事の幅が広すぎる。
曖昧模糊としている感じはCGのぼかし具合とかなりマッチしていて
「してやったり。」ニヤリ
てな感じまで伝わってくる。
ここがこの作品が芸術的と言われる所以なんだろうが、
自分としては作者の驕りにしか思えない。


第二に
読者を選ぶ深い作品と、
読者を選ぶ事を諦め作品の「意志」(高橋しん)を大事にする作家、
どちらがいいのだろうか?

これも以前喋ったのだが、作品の一般性を高めると作品の価値は下がるにせよ
読者に行きわたりやすい。
一方、作品を難解にすると作品の文化的価値は上がるだろうが
読者には行きわたらない。


「私はもう読者に失礼なことをしたくない。」
「フン。売れないと読者の手まで辿り着かないと嘆いていたが、
昔と変わらず他人の事しか考えてないな。
他人の目など気にするな。今のオレならどうにでもしてやれる。
この時のために、死んだ魚のような目をして六年間生きてきたよ。」(日本橋ヨヲコ


この対立事象を考えた上での判断だと思う。
功殻2が原作である事も考えるとそうならざるを得ないか・・・

しかし、そうならそうで何故あそこまで詰め込んだのかがワカラナイ。
オシイならもっと純度の高いものを作れたであろう。



第三に
バセットハウンドを使いすぎ。

はっきり言ってこの感性は全然ワカラナイ。
メッセージの送り手としての自覚はあるのだろうか?
視聴者の受け取り方が全く予想できない概念を持ち込んでまでなにがしたいのだろう。

確かにサイボーグと人間の中間である点はわかるが、
それ以上に踏み込めない。

バセットハウンドはその飼いにくさゆえ、普通のペットとは違った物なんだろうが
それが予想できないから理解に苦しむ。


・・・結論は、イノセンスはやはりオシイ自身を映し出した作品である。
ということだ。
良かれ悪かれ、彼自身が世間の目に羞恥プレイがごとく晒されるわけで・・・

だからこの作品がワカラナイって人は彼自身がワカラナイだけであって
世界の断片を拾いそこねた感じにはならないのかと思う。

何も考えなくても十分面白いと思うし、いろんな楽しみ方があっていいと思うので。