りとすら

書きたいことがあんまりありません

ゼミの先生が亡くなりました

悲劇的表現は、実存の垂直方向に位置づけられるという意味において、他のすべての表現に対する絶対的特権性をそれに与える、存在論的な根拠を持っている。それに対し、他の表現形式は、むしろ人間的な諸変容であると言える。
(『フーコーコレクション1』113頁より)

 ありがとうございました。いままで、本当にありがとうございました。


 感謝を、
 恩を、
 返すことはもうできないけれど、


 その思いだけは、僕のなかに、
 楔のように、澱のように、深く深く沈めていくしかありません。


 忘れたくないのです。死んだ人の事を。
 なくしたくないのです。この思いを。

先生とのやりとり

 振り返れば、先生との初めてのやり取りは、ゼミ試での僕のブログに対する返答からでした。

なんだかとても生きづらそうだ。
blogで言葉を吐き出し続けているようだけれど、
それを読んでいたら、こちらの心の琴線も少しばかりこわばってきた。
と同時に、二十歳の自分が抱いていたハズの感情も少し蘇ってきた。
なんで、こんなにだらしくなくて、くだらなくて、不甲斐ない
典型的スーパー文系の僕のゼミを選択したのだろう。
でも、おそらくそこに何らかのキーがあるんじゃないかとも思う。
君の言葉はすこしだけ硬くて切れすぎる。
その内面への冷たい視線をもう少しあたたかくして、
読んでくれる人のために言葉を紡ぎ始めたら、
きっと周りだけじゃなく、君自身も変わり始めるような気がする。

 今でも心に刻んでいます。
 こんなニヒリストが他人に対する温かさを手に入れ始めたのは、ほかならぬゼミとの出会いがあったからです。

締めくくり

 長くなってもいけないので、最後にゼミのモットーを。

西本ゼミのモットーは、eccentric だけ。only one E だ。
eccentric. 辞書を見ると、[常軌を逸した、一風変わった、普通でない、変な・・・] とある。
でも、それじゃあ単に迷惑な人、単に迷惑なだけのゼミになってしまう。
常軌を逸している、人と違ってる。それだけでは何も生み出せない。

―――

ことばの原義にまで遡ってみる。
eccentric は3つのパーツからなることが判明する。
[ ec + centr + ic ] だ。
centr はセンター、つまりメインストリームを指す。
ec は接頭辞で反意語。つまり、メインを打ち消す。
最後の ic は単に形容詞にするための接尾辞。
つまり、eccentric とはもともとセンターから逸れ出す/漏れ出す運動性能を指す。

―――

社会のメインに埋没・耽溺・過信することなく、
そこから少しずつ逸れ出しながらも、
その逸れ出す感性をこころから楽しみ、
内なるものを外から冷たい目で眺める。
たとえ最後に弾き出されてしまっても、その責任はすべて自分で負う。
そんな人らで創り出す現象体、西本ゼミ。


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僕らはleapする。
leapし続ける。
きっと死の直前まで。
それは決して“何か”のためではなく、
leapそのものの喜びのために。

 先生はきっと直前までleapし続けたのでしょう。僕もleapしつづけるのでしょう。


 心が高鳴りおどる跳躍。その跳躍そのものを楽しんで。