物語を読むときに感じる説教くささ
「正解」とは「このように行動すれば良いのだ」という、その作家なりの結論のことである。ぼくの場合、物語にそのような「正解」が出てくると、白けてしまうことが多い。現実にはそうそう「正解」は見つからないと思うからだ。
―――物語に「正解」はいらない。 - Something Orange
ぼくはどちらかというと、説教臭い方がいい。それを他人事だと思うか、俺も頑張ろうと思うのかどうかは、俺に託されているし、そこまで説教されないから。
ぼくにとっては、そのようなロジカルな「正しさ」で割り切れないところにこそ、物語の醍醐味はある。
もちろん、そういうメッセージ性の強い作品を好むひともいるということも理屈ではわかるのだけれども、ぼくにとっては、物語に「正解」はいらないのである。物語には、物語さえあれば十分だ。
大学の授業で考えてみると、教授が「これこれこうなっている」と言った後にカッコつきで(と俺はこの学説を信じているんだけど、君たち学生も信じてね)というニュアンスが滲む。大学1年の概論ならともかく、3,4年の専門に進むと、学説がどうしても個別具体的かつ学会の最前線になっているし。
こんな風にいかに「合理的」であるかのように偽装されている「学問」でさえ、ある種の「正解」を高らかに主張する。*1
物語には物語だけ用意されていればいいと言い切れるのは、ある種物語を追うことのできるメンタリティを持った人だけであって、「読書なんて暇つぶしか勉強です」と思ってるぼくのような人には、核心に迫ってこない。
しょせん他人事。
id:kaienさんの言いたい恨みつらみはすこしは理解できる。説教のヘタな人がイラつくんじゃないかな?
でもそれは、説教の導入部分である環境整備のしかた、たとえばマンガで言えば絵だったりネームだったりコマ割りだったりするけど、それが上手く誘導技術として成立していないときに思うものであって。すべての表現(芸術と言うと言いすぎなので)になにかしら説教を感じるのは、それが表現だから仕方のないこと、逃れようのないことであって、
「泣き言」も「逞しさ」ももろともに許容するような作品が好きだ。
というのは説教の厚みとして、多種多様な価値観をその作品が(たまたま)内包できているかどうかって事に落ち着く。
メタ次元で言うならば、読み手である自分がそれを完全なるフィクションとして読む姿勢を保てるかどうかというメンタリティの問題のような気がしてならない。
ぼくは「しょせん他人事」と思ってクールに作業として読書をしていても、フッと心を揺さぶられる瞬間に出会うから、読書を止められないんだけれど。
対外的には言い続けてやる。「読書なんて暇つぶしか勉強です」
*1:この例、微妙だな。文意がズレてる・・・汗