りとすら

書きたいことがあんまりありません

環境保護したいところで

私たちが生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質とは、他者を殺して食べることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。


約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。(中略)つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然との関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。


人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的に離れてゆくのかもしれない。

 NHKで特番がやっていたのをチラッと見た。クジラに関する日本人の、全世界のなかでも特異な立場を考えた。


 番組の中で、流木に関する一節があった。
 アラスカにながれついた木は、南の方で育ち、地に根を張り、雨で流され、海を運ばれ、腐敗し、養分を吸収させ、やがてそこに植物の種子が根付き・・・
 と考えていくと、だんだんと生と死の境界が自分の中であやふやになってきて。





 効率的に経済的に合理性のある形での環境を保護する、維持することができるスキームをいかに考えていくかというのが人類に科せられた業なのだとしたら、それを実現するのはだれか。


 たぶん無理だな。「人間が想像できることは実現可能なこと」だとしたら、想像できないので実現不可能です。としか言えない。
 すくなくとも僕は、屠殺解体がどのように行われているか知らないし、想像も出来ない想像力の乏しい人間でしかない。



 実感を伴った形で、心理学的にも経済学的にも合理性がある形での環境保護を訴えていくと成功するかもしれない。
 環境問題ってのはどーも、一部の熱狂的なカルト集団が先導している構図が多くて、もうすこし共感を持たせる工夫をして欲しいし、経済的に利益の出るスキームが欲しい。