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アニメーションの歴史―――津堅信之

 今週は京都精華大学マンガ学部津堅信之さん

アニメーション研究者。1968年,兵庫県尼崎市生生まれ。大阪芸術大学芸術学部非常勤講師。京都精華大学マンガ学部講師。
専門は,日本アニメーション映画史,アニメーション文献史。日本アニメーション学会,日本映像学会,日本マンガ学会各会員。


近畿大学農学部卒業。都市計画コンサルタント会社勤務のかたわら、アニメーション研究を手がける。2002年よりフリー、本格的にアニメーション研究・執筆活動に入る。

 アニメーションの歴史、というテーマでの講義でした。オフレコとのこともありましたが、かける範囲で書きたいと思います。

アニメーターは貧しい?

 アニメーターとは広義にはアニメに携わる人全般を指すが、狭義ではアニメの絵を描く人のことを意味する。大きくわけて、原画マンと動画マンにわかれる。原画はカットのキーとなる絵のことで、原画マンはそのカットのキーとなる部分を描く。動画マンガは原画をもとに、動きを付ける絵を描く。


 動画マンはクリーンアップの作業となり、だいたい若手が任されることになる。給与体系は1枚制で、1枚いくらという計算。これが酷い。
 スタジオによって異なるが、その平均単価は200円から300円程度。現在の大卒サラリーマンの平均年収が300万だとして比較してみるとその酷さがわかる。
 1枚ごとに決まっているため、どんなにカットの書き込みがあっても同じ金額で、一日で描ける平均枚数は10枚程度。月に26日働いたとしても月収は5万2千円。年収は60万ほど。これでは生活できない。


 それに対して、原画マンはカット制。1カットに何枚の原画を描こうが4,000円から5,000円を得ることになる。月収で言うと12万から17万となる。映画であったり、専属契約もあるから、このベースからかなり上の金額をもらう人もいる。


 一番もらっている人は・・・なんと1900万円(推定)(オフレコらしいですけど書きます)
 アニメーターの世界は完全に「実力格差社会」と言ってもいい。

なぜこういう給与水準になってしまったのか―――アニメの歴史をふまえて

 アニメというのは基本的に儲かるものではなかった。人件費が9割を占め、手間暇がかかるものだからである。


 1917年、大正6年。日本で初めてのアニメが作られる。はじめは2本立て映画の休憩時間のつなぎだった。
 1925年、教育用教材としてアニメが用いられる。アニメのメディア特性として「見せたいものだけ書けばいい」ので教育効果が高いためだ。
 1928年ミッキーマウスが発表されると、「たくさんの予算があれば、単独の作品としてみられるものが作れる」ということが定評となる。


 1941年、太平洋戦争が始まる。日本政府はプロパガンダとしてのアニメの効用に着目し、海軍省指揮のもと、『桃太郎』が作られる。プロパガンダ機能を最大にするため、コミカルなキャラクターが戦闘機に乗って鬼が島に攻め込む内容であったが、鬼が島はどう見てもハワイである。製作には多額の資金が投入された。


 1956年、東映映画(現、東映アニメーション)が設立される。テレビ放送が1953年に始まり、東映映画は「日本のディズニーを目指す」ために作られたが、30分のアニメを作るのに2万枚の絵を描かなければならず、CM部で長編アニメの赤字を埋めるといういびつな構造でしかなかった。


 1963年、画期的な『鉄腕アトム』が登場する。少ない予算であったため、毎週1回30分のコマを1500枚の絵で埋めるため、「動かさない紙芝居のようなアニメを作る」という方法論を用いた。
 アニメ業界では、しばしばこの制作方法が批判されるが、この作り方はこの後のアニメ産業を形作る大きなターニングポイントとなったのは間違いないだろう。
 「動かさない絵で視聴者を喜ばせるために、ストーリーとキャラクターを見せる」という日本アニメの特徴が、ここで形作られた。


 1974年から84年はアニメ界の成功を約束した黄金期である。
 74年『宇宙戦艦ヤマト』、79年『機動戦士ガンダム』、84年『風の谷のナウシカ』にはじまるそれらの作品は、日本アニメの「ストーリーとキャラクターを見せる」ことに成功した。
 ヤングアダルト向けのこの作品群は従来のアニメと違い、無敵のヒーローではない等身大の主人公が登場する。熱狂的ファン・・・現在で言う「オタク」を作り出したのも、この作品群である。
 映画批評誌として有名な『キネマ旬報』でいままで黙殺されていたアニメではあるが、『風の谷のナウシカ』はベスト7に入る偉業を達成した。


 こうして、「アニメは子供向け」だという常識を打ち破り、日本のアニメは全世代向けにカスタマイズして作られていくことになる。幼児向け(アンパンマン)、子供向け(ポケモン)、中高生向け(ガンダム)、全世代向け(ポニョ)、である。こういった各世代向けのコンテンツがあるのは、全世界を見渡しても日本だけであり、全世界で日本のアニメーションが配給されているのは、この理由が大きいことは言うまでもないだろう。


 1995年前後、animeが世界でも注目を集めるようになる。熱狂的ファンを作った押井守の『攻殻機動隊』や宮崎アニメの成功がそれである。
 ファン層の拡大と、各映画祭でのノミネートなど、海外ではビジネス的に成功しているかどうかという点が重要視されるため、アピール力が高まってきている

まとめ

 アニメは貧困なビジネスモデルだったが、日本の独特の作成手法である「ストーリーとキャラクターを見せる」ということに焦点を置いた作品作り(ビジネスモデルのコペルニクス的転回!)をすることにより、良質のアニメを量産することに成功した。
 この成功はアニメーターの経済的成功につながってきているが、未だに成功している人と若手の経済格差は酷い。この環境をきちんと整備してあげることが、今後の課題になってくるだろう。
 去年(2007年)は1週間に100本のアニメが作られていたが、今年(2008年)は70本程度である。厳しい環境はまだまだ続く。

アニメーション学入門 (平凡社新書)

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