りとすら

書きたいことがあんまりありません

論理というフィクション

 本当に子供というものはみていて飽きないしいつでも成長を感じさせるから成瀬が子供は奇跡を起こすって言ってた意味が今になってやっとすこし理解できてきている実感がわずかながらあるんだけど、子供っていうのはやっぱりどこまでいっても未分化な存在だという感じもしている。
 算数を教えているとどうしても根幹部分の論理に触れざるを得なくて、なんでここでこのグラフの4を使ったのか使わないといけないのかこの4は何を表わしてるのかっていうなぜなぜっていういかにも子供がしそうな質問形式に陥っていく。


 算数は論理学であるし公理だとか定理だとかによって支えられているけれど根本的なところになるとなんで直線は連続しているのかっていう説明はしていないしなぜつるかめ算を利用すると2つの不定数が定まるのかの説明も曖昧だからなんか卑怯な気がする。
 算数はともかくこんな感じでまあぎりぎりのラインをごまかして生きながらえてるし学問分野でもないから適当でもいいんだけど、子供自体の論理となるとそうもいかなくて一体全体どうやって成り立っているんだろうと思った。


 「うーんとね・・・ハイ!!!!」
 「何?」
 「ハイ!!!!」
 「だから何よ?」
 「うーんとね。ヒント頂戴・・・神様ぁ・・・」


 いくらねだられても答えを直接教える気はないんだけど、子供の論理ってのはいったいぜんたいどういう風に成り立っているのかまったく理解できないし理解している気になっているだけなんじゃないかと実感させられてしまった気がしたのは、なんでAがBになってBがCになるからAがCになるという三段論法の時点で子供には理解できているのかっていうのが謎で俺らが普通に生活しているうえで無意識に使っている自分が怒らせてしまったからアイツは俺のことがきらいなんだという「心の理論」が子供には理解できていないっていうことをやっぱりわかってしまったからで、心から伝えれば子供に気持はつたわるなんてのは嘘に他ならなくて子供には同じことを何度も何度も言い聞かせて理解させるよりも慣れさせるほうが楽だ。


 論理っていうのは言い換えてしまえばたぶん連続を意味していて子供には連続するものと連続しないものがわかっていない気がする。それはいつも行っている小学校を卒業するってことがイマイチ理解できていないしたぶんそれまで生きてきた自分の人生の長さが短いから時間に対しての意識が向いていないことが原因なんじゃないか。
 だから時間が理解できていなくて連続が理解できていないんなら論理もきちんと理解できているはずがなくて中学受験というのは論理を、しいていうなら科学的思考という現代を支配する考え方のスキームを埋め込む装置として駆動する機械仕掛けの神みたいなもんだろう。


 「先生わかった!!!!」
 「ホントにわかってんのかなぁ・・・」