りとすら

書きたいことがあんまりありません

全自動恋愛主義

そーゆーわけで「誕生日までスタンドアローンコンプレックスを噛み締める!?」も最終回の5回を迎えました。ぱちぱち。いやー長かった。

第一回「ケータイという名の現代病」
第二回「mixiなどのソーシャル・ネットワーキングは思考の並列化を生むか」
第三回「オリジナルの不在がオリジナル無きコピーを生み出してしまう」
第四回「親の模倣子と子のゴースト形成の関係性」

ここで、記念すべき第五回は恋愛のことについて考えることにしますか。誕生日をなんの予定もなく過ごす俺だからね。誰か俺をどこかへ連れて行ってくれないか。愛をくれ。愛を。無償の愛を・・・まぁそんなモノは最初からないけどさ、ちょっと言ってみたかっただけだよ、うん。

ずばりタイトルは「世界の中心でアイを叫ぶケモノ」とします。はい、パクりです。エヴァです。しかもまんまで芸がないです。すいません。もちろん、そんな皆さんならば「愛=私(I)」ってことはお気づきですよね。ならハナシは早い。

純愛ってのが一応のブームになってから半年余りが過ぎようとしてる。アレはなんだったのか。Yoshiって誰だオイって感じだけどさ・・・純愛ってのが究極の愛の形なんだとしたら、それはキリスト教的な一対一の救済に通じるところがあるよね。しかも恋愛の場合は二人で完結しえるから、他者が割り込む隙間がない。「誰かとつながっていたいのよ。自分の価値を証明して欲しいの」とはまさにこのこと。

2人でそれ以上のものを必要としない閉鎖的な関係性が要求されるのは、まったくもってポストモダン的で相対主義的だよね。「絶対にこの人がいい」っていうんじゃなくて、「この人でも私の価値を証明する事ができる」みたいな。

そんな凄く切ない相対主義におかされた世界だけど、それは情報の乱交状態を生み出したほうが民主主義的であるっていう幻想をいだいたから導かれた結果であるわけだ。民主主義的であるってのはすなわち相対主義的であることを認めてしまうことだからさ。民主主義が多数決主義と理想主義を根幹にしてるのは基本だけど。

相対主義下の恋愛はどこかセツナイ。そんなセツナサと共に生きることを止めた人が増えてるのが、晩婚化につながってるんだね。結婚なんて考えてみれば「社会化」以外の何者でもないからね・・・で、その失われた愛情に対する未練がないわけじゃないのがポイントだ。欠けたピースは補われなければならない。で、オタク化すると。

論理に飛躍はないぞ。決して。失われたものを奪い返す仮想的レコンキスタを成し遂げただけ。オタク化。

人間なんて生き物は自動で恋愛するように作られてるのさ。欠けたピースを埋めに。