りとすら

書きたいことがあんまりありません

秋葉原通り魔事件で僕の思うこと

 まずは先行文献から。

不安を解消しないままに分からないと留保をするよりは、分かりやすい解説を求めてしまうのが、ありがちな人間心理なのではないか。ニュース速報を眺める人の過半数は、不安を留保してまで容疑者心理に接近するよりは、分かった気分になって安心したがるのではないか、と私は思うし、それは致し方のない部分を含んでもいる。そして良くも悪くも、その不安を解消する為のツールとして機能するよう、マスメディアは無言の期待をされている。
―――マスメディア越しの不安と“分かりやすさ” - シロクマの屑籠

幾ら動機や心的背景を分析しても、一人の人間の行動を説明しつくすことは出来ない。例えば「電車でいちゃつくカップルがムカツク」と思った人が百万人いたとしても、実際に電車でいちゃつくカップルに難癖をつける人は、多分、千人もいない。ましてや、バールのようなもので唐突に殴りつけるような奴は、一人、いるかいないかぐらいだろう。「電車でいちゃつくカップル」をいきなりバールのようなもので殴りつける奴の、動機の種類だけ特定出来たとしても、多分あんまり意味が無い。
―――何百万分の一の、ややこしさと分かりにくさ - シロクマの屑籠

 こんなことを言っていると、危険人物に思われるんだろうなと思いつつ。


 マスコミによる事件の分節化によって、加害者の精神性だとか歴史だとかがすべて解明されていったように思えて、他人事にしたいんだろうな。
 「わかったことにする」ことでラベリングし、事件の事件性・特異性を消失させてしまう。
 一番大切なのは、第二の事件を引き起こさないためにどうしたらいいのかを考えることなのに。


 事件を回収してしまった例は、宮崎勤事件がいい例じゃないか?ペドフェリアでオタクというレッテルに回収されたかに見えるけど、実際の精神鑑定によると成人の代替物として弱い幼女を狙ったといわれているし。


 「オタク」「学歴コンプレックス」「家庭環境」「挫折」「スクールカースト」など分節化は容易に用意できる。そういって「わかったことにして」忘却の彼方へ。最終的には死刑にしてしまえば、すべてが解決するとでも?



 派遣労働という制度を無くし、物理的に格差をなくすことでどうにかなるのかもしれないと思いつつも、それだと日本経済が破綻してしまう構造になってしまっているから、どうしようもなく僕の怒りだけが膨れ上がっていく。だから僕は殺人事件に対して語りたくない。
 「わかったことにすること」は簡単だけど「わからないままにしておく」ことが難しいから、「語らない」という選択を取ってしまう。

「世界が嫌なら自分を変えろ。それが嫌なら、目と耳を塞いで口を噤んで孤独に暮らせ」
―――「攻殻機動隊」から草薙素子

 僕にできるのは「語らない」ことを「語る」という第三者的立場を取る姑息な行為だけだ。