りとすら

書きたいことがあんまりありません

社会人として自動化されてしまっている

 新入社員として会社指定の研修施設にいてマナーを学ぶ機会があったんだけど、マナーなんて所詮大したことなくてほいほいほいーとマニュアル通りに覚えてしまえばそれで終わりでみんなどーせ体面的なことしか気にしてないんじゃねーと思っていたんだけどそれはしょせん思いあがり。慢心。増長。の類に他ならなかったのは他人を見て気づいたことだった。


 同じ研修施設の隣の区画でL●MHの女子社員を研修していたのだけれどそれまでちっとも気にならなかった他人の振る舞いが目につくようになったのだ。それも帰りの電車で。
 彼女達は周囲の目線も気にせず関西弁の大声ではしゃぎながら足をバタバタさせたり元カレの話をしたり手を叩いていた。それは学生時代からしたら話題を盛り上げるための作法であってある種の合理性を保っていたのだろうけど、それはしょせん田舎のヤンキーと同じ「ウチらのシマ」と同じ発想でしかないのだ。
 社会人になったからと言っていきなり社会人ぶるのもどうかと思うけれどそれはそれで社会的な要請なのだから仕方ない。通勤時間は家を出た時から会社の代表だという自覚を持っていないといけないのだ。


 この社会人としての意識。学生時代はクソだと思っていた社会人の理論。
 なんということだ。


 気付いたら一週間程度で社会人として訓練されてしまっている自分に対して言葉がでてこない。これが正気なのかどうなのか僕の判断基準も揺らいでいる。人間が置かれる環境が変わるということはこういった日常的な作法に現れてくる。それは知らぬ間に自分の無意識という知覚の束を操作していてそういった訓練されて順応されていくことに人間の可能性が秘められているのかもしれないが順応化の過程が果たして進歩なのかそれとも動物的な訓練にすぎないのかどうか判断をくだせない。


 無意識に他人に説教するようになったら、僕は死のう。