りとすら

書きたいことがあんまりありません

感受性が開くとき

 こうやってなんとなく毎日を過ごしているけれど、なんでだか知らないけれど感受性のレセプターと同時にエフェクターも調整が利かなくなっている時期がときどきやってくる。
 そういうときにぼくは成長している。言いたいことと感じたいことが噴き出している。全身から滲みだしている感覚を持つ。


 ぼくは日常のなかでなるべく昨日よりも成長したいと思うし、より自分の中で納得する自分に漸近的にでも近づきたい。それはいろんな曖昧な感覚を言語化することであり、世の中の問題に対して自分の意見を持つことであり、自分の人生の方向を志向することだ。
 わかりやすい主義(それもある種イデオロギー的な)に陥る(安住する)のが嫌なのは、常に漸近的に変化する自分のことを楽しみたいと思っているからだけではなく、生物としての硬直性を高めてしまったら、人間として生きている意味を失ってしまうと思っているからだけれど、曖昧な物を曖昧なまま自分のなかに澱のように蓄積させておくことは思ったよりも骨の折れる気持の悪い作業ではある。


 人間の一番凄いところは、その適応能力だ。
 曖昧な感覚は曖昧なままでよいけれど、必要なのはそれを忘れてしまわぬこと。曖昧な非言語的な感覚、クオリアは、それこそ言語化していかないとすぐに忘却の彼方。
 忘れてしまう前に、取り敢えずの落とし所を探しておいてノートに残しておく。思い出したら、そのノートは自分だけの宝になる。



 感覚が、質感が、蘇る。自分の表現として血と肉を与えられた言葉が躍る。
 そうやって過去の自分を残しておきたい。現在と対比させることによって、輪郭が鮮明に浮かび上がるから。