りとすら

書きたいことがあんまりありません

『ぼくらの10』

ぼくらの 10 (IKKI COMIX)

ぼくらの 10 (IKKI COMIX)

 残りメンバーも2人。物語は佳境へ。


 人が死を受け入れながらも生きようとしている姿を読みながら、ガンと告知された人間の生を追想するような感覚を覚えた。
 死への想像力は日常生活を送る上ではなかば恣意的に忘却の彼方へ押しやってしまっているけれど、それは確実に迫って来ていて、ぼくらはどんなに長生きしようとも老衰かガンで死ぬ。


 鬼頭莫宏といえばどうしても「セカイ系」の想像力として受け取られがちだけれど、『ぼくらの』では、死と、社会と、世界が、重層的に奏でられていて、人の死(自分の死)が社会的な死の準備段階として描かれていく。
 それは「セカイ系」のように閉じこもった感傷的な想像力ではなくて、もっと積極的に自分の生をどう選択していくのかという問題だ。


 自分の死に方を選ぶということはすなわち、自分の生き方を選ぶこと。

 「死はみんなで創り上げていくものでもある」なんていうと、何を言い出すのかと戸惑われる人も多いと思う。死は死、前にも「人は誰しもひとりで生まれてきたのだから、死ぬときもひとりで死んでゆく」なんて書いてるじゃないと指摘されそうだ。


 とはいえ、心拍が止まったり、脳波がフラットになったりといったいわゆる生理的な、どこまでも個人的かつ物理的な「死」とは別に、いわば集団的・社会的な死という側面が死にはあって、最後を迎えるにあたってきっとこの側面を無視することはできないのではないかと思う。


 人はあるとき突然死ぬのではなく、本人も周囲もだいたいの見極めをつけながら死んでゆく。患者自身もドクターも「あと3ヶ月くらいかな・・・」といった各自の予測の下に治療や生活を組み立てていく。つまり、人はそうした予期の下、徐々に死にゆく(dying)。死は動名詞的に常に進行していく類の現象でもあるのだ。
 こうした死への予期が周囲で著しい不一致をきたしていることがよくある。つまり、患者本人は自分の体調をよく理解しているので、だいたいあと何ヶ月くらいかわかってくるし、その予期に基づいて自分の身辺の整理などを始めたりするのだが、周囲の人びと、つまり家族や友人、親類などはまだまだ生き続けられるだろうと予期して、そうした患者本人の死を見越した行動を激しく非難するといったことがある。
 また、持っている知識量の違いから、ドクターと患者の間でこうした予期間の齟齬がよく発生する。患者はまだまだ生きられると予期しているがドクターには死がかなり差し迫っていることがわかっていて、それをどう伝えればいいか困惑したり、逆に患者のほうが早とちりしていて、まだまだ生き続けられるのに勝手に死にゆくものだと思い定めて身辺整理を始めてしまうといったケースだ。いずれにせよ、こうしたケースでは、「死」を共同で創り上げることができず相互に苦労している姿が観察できる。
 円満な、というとオカシイかもしれないが、誰もが納得できる「死」を創り出すためには、患者の側でもそれなりの努力が必要で、たとえば病状の厳しさをキチンと周囲に表現したりといった、ある意味、死の「演出」が求められることさえある。
 死ぬとはなかなか骨の折れる作業なのだ。痛みや苦しみをこらえ、永遠の別離に哀しみ、死後の指示まで用意して、その上演出までしなければならないのだから。

 先生が残してくれた文章が響く。