りとすら

書きたいことがあんまりありません

身の回りを好きな言葉で溢れさせたい

「ダイアログっていうものをドラマに従属させるんじゃなくて、映画のディテールの一部にしたかったというのが動機です。 劇映画の台詞って退屈ですよね。ほとんどが説明やなりゆきで。それが嫌だった。というか、もっとやることがあるんじゃないかと。言葉それ自体をドラマのディテールにしたかった。ディテールである以上は、それなりに凝ったものでなければならないわけで。一つ一つに足を留めてもいいような陰影のある言葉。ちょっとした人物が吐く台詞も何物かであってほしい。たとえば刑事の『柿も青いうちは鴉も突つき不申候』とか。ドラマといったん切り離したときに言葉は映画のなかでディテールになる。可能であれば100%引用で成立させたかった。古典に関してはほぼそのまま引用しました。世阿弥とかね。様々なレベルで、言葉を機能させたかった。...」
―――押井守

 友達としゃべっていたんだけど、彼は授業のノートであっても、どうも自分なり解釈をしたメモを取りたがる。
 自分のまわりを自分の好きな言葉で埋め尽くしたい。という。半径3メートルのストレスフリー。


 会話(dialogue)をドラマ(日常という舞台=劇場)に従属させるんじゃなくて、同じレベルで並列させておきたいんだよなー。
 会話を前景化させておかないと、記憶が思い出になったときの強度が不足してくるような気がしていて、強度のある濃い日常を過ごしたいと思うので、周囲を好きな言葉で溢れさせたいと思っている点では、ぼくも同じかもしれないと思った。(授業のノートはマジメに取るけど)


 そのためには「言葉が汚い」と大人に注意されようとも、ぼくはぼくの使う言葉を愛しているし、言葉づかいを強制されるくらいなら死んだ方がいいとも思っているので、きれいな喋り方はぜってーしてやんねー。


 言語ってのはやっぱりひとりひとりに従属しているものであって、「共有ツール」としてドラマの従属物として扱うんではなく、言語それ自体が生き生きしているところをみると嬉しくなってしまう。*1
*2

*1:例えば、ぼくは好きな広告が多かったりする

*2:しゃべり言葉を書き言葉に完璧に変換してしまう文体があれば、それは革命なのだと思う。言文一致体なんて嘘まやかしにしか思えん