りとすら

書きたいことがあんまりありません

ぼくにとって塾は厳しい空間でもあるけど、暖かい空間だった

中学生の息子と小学生の娘を持つ彼女の口からは、「最近の学校の先生はあまり頼りにならない。塾の先生のほうがずっとしっかりやってくれる」という話が出た。曰く、母親からみても、子ども自身からみても、“中学校の先生の対応も授業もいまひとつ”で、“塾講師の指導はわかりやすく、無駄が無い”のだという。ただし、社会生活や学校規則を守るうえでも、学校行事や先生の指導はきちんと守るようにと子どもには伝えているのだという。

 

 話を聞きながら自分自身の中高時代を思い出すと、なるほど、確かにそうだったかもしれない。既に受験ブームがヒートアップしていた当時、私はたくさんの学校教師・担任・塾講師に出会い、色々なことを教えられたが、こと勉強に関する限りは、塾講師のほうが「よく教えてくれた」「自分に合ったことを習わせてくれた」と記憶している。学校教師のなかにも、分かりやすく“コツ”を教えてくれる先生がいなかったわけではないし、職員室に直接訊きに行けば皆ちゃんと解説はしてくれたわけだけれど。

 

 しかし、今になって考えれば、そんな風に感じられるのも当たり前といえば当たり前か、と気付く。塾講師が担っているものと学校の先生では、任されているものが違いすぎるし、見え方も違いすぎる。そこの所を考えれば、その女性や在学当時の自分が、塾講師のほうが“よく教えてくれるようにみえた”のも無理は無い。以下のような理由から、学校の先生が塾講師よりも「よくみえる」確率は少なかろう。

 確率論として教師の方が仕事が拡散してしまっているし、ひとりの生徒に対して掛けられる情熱の量が少なくなってしまうのは事実。

どっちが偉いのか問題

 塾講師と教師のヒエラルキーなんてものは、保護者にとって、第三者にとって、大切かもしれないけれど、働いている側からすればあんまり大した問題じゃない。


 名門校、難関校の教師であれば「塾に行くな」と言って授業しているので、一方的な嫌悪感はあるのかもしれないけれど、塾サイドからの嫌悪はあるのかと言うと怪しい。


 これは世間の評価だけが問題として独り歩きしている。

恩師問題

 それぞれの育った環境によって、塾の先生であろうと「恩師」にはなり得る。といえる時代になってるんじゃないかな。だから別に、学校の先生が恩師でありますように。だとか塾の先生からも学ぶことはあります。といった議論にも結論が出ない。

塾の先生を援護する

 時代の変遷とともに、塾の先生というものが一般市民にも開放され、われわれに身近な存在になった。いまや補習塾から有名予備校教師までさまざまな大人たちが働く仕事だ。id:accadia11さん曰く

じゃあ塾講師との関係において「恩師的な何か」は宿りにくいのか、というとそうでもないのかな、という気がします。あくまで個人的経験則の域を出ませんが、塾講師の先生は、学業面で優れていながら、何らかの挫折を味わい、結果塾講師をされている方が多かったような気がします(そういう言い方をしてしまえば、どの職業についても同じことが言えてしまうとは思いますが)。学歴社会のこの国で、かつては(極めて世俗的な意味においての)栄達ルートに乗っていながら、色々あってそのルートから外れてしまった。でも、知的労働に対する誇りも執着も少なからずある。そして、自身は(現時点では)進むことのできなかった栄達ルートに人様の子をなんとか押しこまねばならない。そのように考えると、塾講師という職業は、その生き様そのものが、様々な矛盾や葛藤に苦悶している学生にとって極めて示唆に富む存在たりうるのではないでしょうか。少なくとも私の予備校時代はそうであったように思います。


 ぼくの人生を振り返ってみても、塾の先生から学んだことは多くて、「家と学校以外の大人」として子供の目に映っていた。
 地域コミュニティが崩壊してしまっているからこそ、塾での先生や同級生とのコミュニティのなかで学ぶことが多い。


 塾の先生は「良い大人」に見せようという繕いがなくて、仕事では勉強を効率的・効果的に教えてくれるし、私生活面とか趣味の話とかでも盛り上がれる。客と店という一方的な関係を乗り越えて、フラットな関係にいられる。
 大人と大人の塾(英語塾)なんかだと、ここまでナチュラルな関係は築きづらい。


 その独特のコミュニティが、ぼくは大好きで、家庭も学校も提供できない価値は、いまの塾が担っているんじゃないかと信じている。