りとすら

書きたいことがあんまりありません

科学的なモノとそうではないモノ

社会学部の学生に経営学を教えていて、あまりにナイーヴすぎるんじゃないか、と思うことがありまして。
―――はてな

 科学の基本原理は「合理性」という価値軸によって担保されているので、科学絶対主義でない人と会話するときに考慮しなきゃいけないのは「合理的であれば良い」とする価値観そのものが間違いなんじゃないかって事だ。


 経営学社会学も、どちらも社会科学であるけれども、学生が科学的思考(合理性を価値基準とする)を持ち合わせていない状況も考慮しなきゃいけない。
 そもそも「学問とは何ぞや」ってことを理解できない学生が多いのは事実で、そこは誤魔化し誤魔化しやっていくしかないけど。


 で、語彙的には「ナイーブ」じゃなくて「プリミティブ」な反応をした。というのが正しい。*1

これまであちこちで教えてきて、「競争で負けた組織はかわいそうだ」ということをコメントされたことは初めてでした。


実際に存在する競争という現象を、そしてそこでの優位劣位を、かわいそうとかかわいそうじゃないとか、善悪とか、そういうものにいきなり結びつけてしまう。それを論じたらなにか成果があるんだろうか。そこで感情を論じずに、どうしたら市場で生存できるかを、対処可能性を論じるのが経営学だよ、百貨店だって、今日を予期して手を打っていたところはまだしもそこまで窮地には立っていないでしょう、と対応はしましたが。

 この対応が甘い。「合理性」を基準にしているんですよ。そういう学問なんですよ。としか説明できない。
 科学は科学的でないものを説明する権利を持ち合わせていないからだ。倫理的判断や価値判断はできないし、しても意味がない。キリスト教と仏教の優越性の比較をしているようなもんで。
 本当に学者やってんのかな、この人。

なぜこうなるのだろうかわからない。社会問題を感情的に批判していれば解決するとでも思っているのだろうか。誰か悪意の人がいて、それを取り締まるべき人がまた心がけが悪く責任を果たしていない、だからそれに文句をいえば社会は良くなる、みたいな社会観が根底にある気がする。

 感情的に批判することでしか解決できなかった問題も史実上にたくさん存在する。フランスでの死刑制度廃止をめぐる対立なんかいい例だ。経済合理性だけで説明していい問題と、そうでない問題との混同が起こっている。

ソリューションというものを考える時に、「それは誰か担当者がちゃんとやればいいじゃないかそれを指摘すべきじゃないか」というスタンスで解決するのかな。ビジネスでそれだけでは無理じゃないのかな。

 プリミティブな反応をする学生を一般化しすぎ。
 経営が総合力としての経営体の合理性を目標としている以上、各個の合理性を志向するんじゃなくて、組織マネージメントを考える必要性がある気がする。



 だいたい、最近の経営学フレデリック・テイラーの科学的管理法だとかの有効性を疑問視する方が強くて、人間が社会的な生き物であるから、科学でなく環境をゆるーく整備していきましょうという学問にシフトしていると思うんだが。


 「マーケティング(笑)」が成功しないのも、こういった学者と一般のビジネスとの間に壁があって、泥臭い組織内行動だとか折衝だとか「同情を得る」ことで成功するプリミティブなふるまいが必要なこともあるにも関わらず、学者が「感情なんて言っても仕方ないよ」と言っている構図が浮かんでしまう。コンサルファームに仕事を依頼しても、依頼主との間に存在する現実的な壁は消滅することないってのもおんなじ話。


 とある知り合いのコンサルの話。

「相手が大人でも、怒鳴りでもしないと動いてくれないことがある」

 だそう。泥臭いぜ。現実社会は。

*1:ナイーブだったら、「本当に合理性はあるんですか?」という対応になる