りとすら

書きたいことがあんまりありません

本を読んでおきたいなと。

 本というものはコツコツと何日も何週間もかけ大事に読み込むものだと思われている人も多いだろう。また、大事な箇所には丁寧に傍線を引いたり、ノートに書き出したりと、そういう地道な作業に努力を費やす方も多い。大いなる勘違いである。
 本は一気読み・箱で読むに限る。
 なぜか? まずチマチマと時間をかけて読んでいると、前後の脈略の連なりが捉えにくくなる。何週間も前に読んだ内容はすぐに頭の中から消え去る。理解の前提となる論述を忘れたまま先に進んでもいいことはないだろう。以前読んだ部分を忘れる前に読み切ってしまう脚力が読書家には必要不可欠だ。


 まず大切なことは、「本は何週間もかけて読むもの」という誤った“思い込み”を捨て去ることだ。自分をラッセル車のようにイメージして、ワシワシと貪欲に本を読み散らしていく姿を想像すること。
 そして次には訓練することだ。まずは、この本!と思い定めて、なんでもいいから一冊二冊、一日で読み切るという経験を経ること。それはどんな本でも構わない。吉本ばななの『アルゼンチンババア』、乙一の『ZOO』、村上春樹の『風の歌を聴け』、なんでもいい。短くて読み易いものならなお良い。とにかく、(おお!一日で一冊読んじゃった!)という驚きと達成感を手に入れることが大事なのだ。で、一冊そのように読めたら継続すること、慣れることだ。二冊目ももちろん一日で読む。三冊目も一日で読む。四冊目あたりから少し厚手で難しそうなものにしてもいい。そして、すっかり「一日一冊」生活に慣れたなら今度は新書あたりから学問や評論、思想の世界に慣れ親しんでいけばいい。決してはじめから難解なもの、世界の名著といわれるような岩壁に突き当たっていかないことだ。何事にもモノには順序というものがあるのだから。


 最後に大事なことを教えておこう。いまだに“知性の単位”は変わらず本だ。本を一冊一冊ブロックのように積み上げていってはじめて知性が育ちゆく。培われる。では、本を読まない人は? もちろんそこに知性はない。
 人は必ず“良き特性”を何かしらもって生まれる。それは人間的魅力であったり、誠実さであったり、大胆さであったりする。もし、そこに本を単位とする知性が掛け合わされたらどうなるか想像してみてほしい。それは大変な力になる。クリントンはその人なつっこい人間的魅力から凄まじい俊秀たち、ブレーンを身辺に引き付けていたが、それも彼の魅力の背後に知性が確かに存在したからに違いない。あなたがどんな良き特性をもって生まれたか知らないが、そこにぜひ知性を掛け合わされることをお勧めしたいのである。


● 本には存分に金を投入すべし。
● 本はその場で即買い。
● 本は汚すべし


 ひとつ言い忘れたことがありました。
 本ね、上で書いたようにもう一日一冊で気が違ったように読み飛ばしていくとね、一千冊くらいの単位で“知性の飛躍”とも言うべきものが訪れます。明らかに以前より物事の理解度が早く・深く・広くなるというか。
 それまではわからなかった事物間もしくは記号・思想間の結びつきや隠されたパタンなどが急に判然と理解できたりね。たとえば英文法と記号論理学の論理式が非常に似通っていることや、チョムスキーの普遍生成文法とコンピュータ言語が近似しているといったことに気づいたりとか。そして、そうした近似性に気づくと、それが偶然かどうか知りたくなってさらに深く調べていったり。
 学問ってそんなことの繰り返しであったりします。
 ただ、そういう気づきや出会いを手に入れるためにも様々な領域の知識に触れていなければならないので、だからとりあえずは“量”が大切という結論に落ち着くわけなのですよ。
―――西本直人(一部改変)

 まだまだ読書量が足りないと思うんだよなぁ。カラマーゾフの兄弟の上巻読むのに3か月、中巻読むのに1か月かかりました。
 スピードアップするためには、読書の訓練をしなきゃいけないような気がする。


 あと、ツマンナイ本は途中で壁に投げつけるようにしたい。
 どうせ自分に価値のある本なんて2割にも満たないと思わざるを得ないし。