りとすら

書きたいことがあんまりありません

身体認識と目

 朝起きて顔を洗いに行くのが面倒だったので、パソコンにかぶりついてずっと仕事に取り組んでいたんだけどなかなかすすまなくなってきたので、これはしょうがないなと思い一階に降りてインスタントコーヒーを入れに行った。
 やかんが鳴り出すまでずっとやかんの前に立ちながら、やかんのなかで起こってる温度の上昇に伴う水蒸気の循環と自分の頭の中の思考の循環によるカオスをつなげて考えてしまったけれど、お湯が沸いたのでマグカップに注ぎリビングに持っていった。


 リビングにカップを持っていくと猫が目を見開いてこっちを見ていたので、ぬくぬくあったまって日向ぼっこをしている猫がうらやましいのと、猫の意識はどこにあるのか気になって目を覗き込んだ。
 どうやら猫の目というのはその猫の意識の状態を示しているということが最近分かってきて、それは瞳孔がひらいているのか閉じているのかでもわかるんだけど、どちらかといえば瞼と眼球の動きの連動具合によってわかる。特に猫は動いているものに敏感に反応してしまう野生のころの癖が残っているのかとにかく動くものに目を向けがちなんだけど、それは覚醒しているのかどうかとは関係がないということだ。
 僕ら人間は覚醒しているときであっても人によって目の動き方使い方が違っていて、その差がその個体ごとの運動性能の差につながっているのかもしれないと最近考えている。目の使い方動き方が正しくて効率的であればあるほどその個体の運動性能が高いということがあるのかもしれないと思うのは、やはりそれがうちにいる猫の二匹の運動性能の差を示すからであって、目の使い方というのは眼球を動かしてモノを追いかけるだけでなく、体全身の動き方を使って他の物体と自分の体の感覚をつなぎ合わせるということだ。
 自分の体以外と体をつなぐ接点を意識するには、自分の体を目で見て把握するだけでなくて体の中から感じていかなければいけないのかも知れないけれど、実際のところ僕はこの歳になっても未だに自分の体の感覚を掴み切れたと言えないから、人間は運動性能においてはまだまだ不十分なところが多い生き物なのかなとも思ってしまうけれども野球選手ならばバットも体の一部として拡張できている。
 人間の身体認識は外の世界との接点である表皮が重要なのかもしれないと思うのはおこがましくて、運動時においては拡張していくことが大切になるかもしれないけれども、その時はその時で拡張していったときの接点が曖昧になってしまうから、運動はその時に応じた身体認識をしていくことがまず必要になってくるのかもしれない。


 猫がすくっと立ち上がりあくびをしてきたので、僕はにっこり笑って猫に僕の手のにおいをかがせようと左手を近づけながら、右手でカップに入ったコーヒーを飲んだ。さぁ午後も仕事だ。