りとすら

書きたいことがあんまりありません

思考までも欲望化されている

 友達のmixiをちらちら見ていたら、デリダを読み始めたという記事をみつけて、おーすげーすげーなんか勉強してるな昔はおれもカント読もうとして「はじめに」で壁に投げつけたっけなあと思い出しながら、その友達の勉強っぷりがしょせん商売道具としての勉強にすぎないツールの獲得なのかなと頭の隅で思った。

 そこでぼくは「純粋に勉強というものがしたいんですよ」と昔ながらに純粋に勉強すること、学習することを目指して東浩紀の専門書をきちんと読んでみようかという気になった。

 だらだらとネットを徘徊していたらスイーツ(笑)という単語を見ていてふいに気づいてしまった。ぼくはすべての行動が消費者行動論的な欲望にあやつられているだけで、自分から考えたり感じたりして行動に移したことはないんじゃないかという漠然とした恐怖。思考することさえも欲望されているんじゃないか。ニューアカデミズムなんて単語しか知らないし浅田彰なんか顔もみたことがないんだけれど、東浩紀の担当教授であった宮崎哲哉の授業に潜った経験が脳内に閃光のようにフラッシュバックしてきてすべての現象が僕を酩酊させる。


 「勉強したいだなんて嘘ばっかり言ってるよまったくいいかげんにしてくれないか。そんなに頭もよくないんだから大した勉強するよりも足使って体で世界を感じなさい。人生を体得しなさい。勉強なんかしないで覚醒していきなさい。」と猫が言った。


 すべてが押し並べて欲望化されているんだとしたらそれがなんの問題になるんだと開き直ることもできるけれど、そこには自由意思なんてものが幻想にすぎないことを認めてしまう姿勢があって簡単には同意できない。
 せめてもの抵抗として消費しないように誓ってはみるものの、もともと重度の動物化が進展してしまってる僕は自分が食べたいと思ったものを食べるし着たい服を買う。勉強したいことすらも欲望を喚起されているだけだから、中心部がわからなくていま動物化するポストモダンの内容を説明して見せろといわれたら確実にとまどうに決まっている。「ほらみろ読書ですら暇つぶしにすぎなくなってしまっているじゃないか西尾維新の言ったとおりになったぞ馬鹿みたいだなお前」と猫が追い打ちをかける。じゃあぼくに何が残されているというのだ。