りとすら

書きたいことがあんまりありません

考えるという恥

 「ぼくは就職活動についてまじめに取り組んでいます。」って言うことに、まだ恥ずかしさだとかばかばかしさを感じてしまう時点でまだまだだなぁと思うんだけど、やっぱり夢とか希望を胸張って言えるような状況になる将来も見えてこないので、煮え切らない。


 結局、真実の回答がないってことに気づいてしまっている。歪んだ形での「正当性の担保」を作るしかないという。最後の最後まで、それはいびつなジグソーパズルのピースみたいなもんで、「なんか合わないな」って思いながら無理やりはめ込む作業に追われることになる。


 活動をしていく上での「正当性」も必要なのは言うまでもないけど、そのなかで見たことや聞いたこと感じたことなど経験したことによって、また違った理論武装をしていくことになる。それにも「正当性」が必要になってきて、常に更新し続けられる正当性っていう時点で、その歪みは露呈しきっているといえなくもないけど、そのことを客観的に見てすらも、一貫性のある「正当」だとは言えないから二重の意味で正当ではない「正当性」が用意されることになるだろうと感じると、悪寒しかしてこない。答えのないテストを受けさせられてるみたいで嫌だ。


 人生に偏差値がつくのならそんなに恐ろしいことはないけど、学生にとっちゃ、偏差値がつかないテストを受けさせられるということが恐ろしい。
 だからこそ企業側は客観的な給与の問題を隠して、理念だとかビジョンだとか姿勢だとかいった抽象的な土台で戦おうとする。卑怯だ。




 客観的データじゃなくて、実感的な就職活動。聞いただけで、「会社を実感する」って不可能じゃんwwwって思うんだが、何を基準に判断すればいいやら・・・