- 作者: 萱野稔人
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2006/11/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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今期のディベートの推薦論題が「死刑を廃止すべきである」だったので、死刑に関して頭が働いているところに、運よくはてな上にて本書について出会い購入。
こういった購入パターンははじめてなので、ウェブの存在に感動していたり・・・
内容はこうだ。
「国家はどうして法律を持つのか、ヤクザを全滅させないのか、刑務所は更生施設として機能しているのか」といった問題は、日本においては一般の道徳教育によって「国民が権利の一部を国家に預けているから国は法律を持ち、ヤクザは現行犯を見ていないから取り締まれず、刑務所は更生のためにきちんと機能している」と答えるだろう。
あまり意識することのない国家論について、あくまでも暴力的にその根本を問いただす理論は読んでいてとても痛快だった。
国家はその圧倒的暴力物量によって国家になる契機を得る。そして国家が国家たるために不可欠な法は、国家を成立させた人間とその人格性を切り離す上である程度の公平性をアピールすることになり、またこの法成立の体系に被支配者を取り込むことによって、反抗されることを予防している。
その契機とはあくまで「圧倒的な暴力保持格差」にほかならず、「権利の受託」なんてものは幻想にすぎず、権力者側のカモフラージュにすぎない。
その証拠に官僚システムにおいては法の明文化された部分よりも、実際の法解釈のほうが重要で、法案はつねに官僚という支配者階級によって骨抜きにされ、いいように解釈されて運用されていくことになる。
ヤクザと刑務所は、非行(犯罪行為)を組織化する手段として管理しているにすぎない。いざとなれば国家はヤクザを動員することによって暴動を鎮めようとしたこともあった。*1
刑務所では更生の手段として使われる規律・訓練によって、そのものが非行を続けるものかどうかを判定される。むろん刑務所に入ることによって、それまでのそのものの社会性は確実に切断されることになり、非行を繰り返すことを助長しているにすぎないとも言えてしまう。刑務所内では服務時間以外の時間に先輩である服役囚からいろいろな違法行為について学ぶことになり、非行者として組織化されていくことになることは疑いようのない事実である。
暴力を語る暴力としての本書には知的発見というよりも裏事情発見的な下世話な視点の獲得に近いものがあって、ふだん思想書を読みなれていない人にもお勧めできる一冊。