りとすら

書きたいことがあんまりありません

僕らは、碇シンジをもう一度背負うことになる

 エヴァの特徴のひとつは、何といっても作品としての厚みだ。それは消費しつくされるようになってしまったアニメの現状をきれいに突破してくる圧倒的な暴力として機能する。

あれだけ消費つくされたものを完膚無きまでに復元し超越したこの奇跡。
―――竹箒日記

 今回の新劇場版は作品の内容とともに、エヴァファンの行動が照らし合わされてくるんじゃないだろうか。この10年間のオタクとしての消費をしてきた僕らは、それこそ一過性の「祭り」にあけくれ、1クール後のアニメをきちんと語ることもしないようになってしまっていた。それがどうだ、今やブログは新劇場版の話題でもちきり。しかもどれもが情熱を帯びている。みんな本気でこのアニメに振り回され、影響されてきたことを示しているじゃないか。こんな「僕ら」のアニメ、他にあるのか?


 新劇は二周目ということで赤い海から幕をあけ、使徒も序列を変えて襲ってくる。父親のことが嫌いになったと共に、大人になった葛城ミサト。すこし表情豊かになった碇ゲンドウ。決断の速くなった碇シンジ



 開幕して30分間くらい、僕は映像と関係なくこんなことを考えていた。

僕は10年間何をしてきたのだろう。主人公に感情移入することを忘れ、ファンタジーをファンタジーとして消費し、記号化された文化を消費し続けた。現実への参照性なんてものは忘れ去られ、もはやアニメがファッションとしてしか機能しなくなり、ファッション用語として1クールずつアニメが忘れ去られていく。もちろんファンでいることは一過性のものだった。「登場人物への感情移入」といった自然主義的な「読み方」は放棄されることになり、自然と「動物化」が進んでいくことになった。これは時代の要請というよりか、それだけの厚みがある作品が生まれなかったことが原因になっているんじゃないか。

 と。


 久しぶりに真面目に映像と、劇場という「場」において対面させられることになった僕には、「主人公へ感情移入する」という古来の「読み方」を取り戻すのに30分もかかったことに、自分で自分に驚きを感じざるを得なかった。僕の10年間はなんだったのか。何も成長していないのか。


 すべてはエヴァから始まった。僕はまた、碇シンジという「僕の」話を背負っていかなければならなくなった。繰り返しの物語。何度も何度も決断と抵抗を必要とされる物語。その「厚み」は全ての物事を押し並べて更地にしていく圧倒的なブルドーザーのよう。現実との間を行き来する批評のよう。