りとすら

書きたいことがあんまりありません

夏休み

 久しぶりの休日が取れてやっと夏休みだぞー遊ぶぞーと思っていたんだけど実際迎えてみるとやっぱり期待を裏切らないほどに何もない夏休みで、特に何もせずに家でゲームしたり本読んだり街に出かけてゲーセンにいったりしてるんだけど、本当は矢嶋さんとドライブに行くつもりだった。
 以前僕はこの人を好きだったんだけど今からしてみるとなんで惚れたのかもよくわからなくてたぶんあまりに出会いが少ないせいもあるだろうけど当時は僕にはこの人しか見えていなかった。
 いまからしてみればただ単純に女の人とデートするのが楽しいのでぶっちゃけて言えばだれでも良くてそれなのに関わらずお疲れのようだから明日は延期しようっとか言い出したもんだからあーあ最初から行きたくないなら言えよって思いながらそうですよねー僕も疲れてるんですよなんて心にもない社交辞令を返した。
 このときの僕の怒りは矢嶋さんではなくて、たぶん世の中の社交辞令を使う女性すべてに対して向けられている苛立ちだった。


 僕はいま特に好きな人がいない状態なのでとりあえず女の人とデートしてるのが楽しい頭の状態なので、ここでやっぱり出てくるのは職場のシゲルさんで僕が車を出してひまわりを見にドライブに行くことにした。
 

 車を運転する行為は完全なる調和への無限の跳躍とでも言おうか祈りに似ているので僕は大好きなんだけれど、それは理想の車の動きが僕の頭の中にあってそれをトレースしてギアチェンジとフットブレーキとステアリング操作をしているからでやっぱりなんといっても車の運転は楽しい。


 ひまわり畑を見ながら僕はなんでシゲルさんと遊びに行ってしまうのか考えたんだけど僕の中に確かな合理的のある答えは見つからなくて、その見つからないこと自体が最近年々進行しているフィーリング気質を表しているような気がしてならなかった。
 人間としての論理の一貫性だとか選択の正当性というアプローチを既存の文脈で解釈しているだけのような感覚は以前からあってもっと五感を使って開かれた可能性に向かって跳躍していくことが大切のような気がするので、ここんところ自分の言ったことを覚えていなくて後輩からよく怒られる。
 でも、思考っていうものの面白さっていうのは一貫性ではなくて展開性にあると感じるので特に気にすることはなく感じることああこう感じているんだな俺はいまこう考えているんだなと考え感じていること自体を感じていることが大切のような気がするのだ。


 どうも開かれていない既存の文脈だけで生きていこうとする典型的な女の子らしい女の子が大嫌いのようで、職場にもそういった小学生が3人くらいいて嫌いだ。こすっからい方法で相手をからめ取ろうとするんではなくて、オープンに自由に生きることが楽しいはずなのは僕の感じ方だけかもしれなくて、彼女たちは彼女たちなりの幸せの感じ方があるのだろうと考えてみても一向に理解ができなくて途方に暮れるしかなかった。