ネットには、自分がいかに不幸で、不遇で、酷い目に遭って来たか、延々と語るひとが少なくない。かれらはまるで、本来なら与えられるはずの幸福の割り当てが、なぜか自分のところには届かなかった、と主張しているようだ。
そうやって話すことで少しでも楽になれるならいい。しかし、ぼくの目には、話せば話すほど、より不幸に陥っていくように見える。
楽になればいいのに、と思う。自分を責めることをやめ、世界を責めることをやめれば、ずっと気楽に生きられるはずなのに、と。けれど、そんな言葉はかれらには届かないだろう。
―――どうか、あなた自身を許してあげて下さい。 - Something Orange
めずらしく、といっては失礼ですがid:kaienさんが感傷的なことを書いてました。
なんか、特に人を羨むことも人をねたむことも人を憎むことも、あまり執着がなく生きてきてしまったのは完全なる「中流」に僕らがいるんじゃないかってことがあって、まぁ虐められた過去とか持ってても、今となっちゃああんまし関係なくて、とりあえず楽しく生きていけるようになったのは何故なのか?ってことには、まだ答えが出せてない回答になりますよね。でも、こういう書き方するしかないし・・・そしてたぶんこういったメッセージはブログ上に満ち溢れていて(というか過去の哲学なんて高尚じゃない何かシリーズとか…)何が求められているかというと、やっぱり徹底的な自己否定なんじゃないか。
完全に否定した後には、我あり。って陳腐だけどやっぱある種の真実をとらえていて、僕の場合であれば「結局、マンガしかねぇ。舐めんなクソ!」って開き直るしかなくて、マンガを読み込もうとすると、またそれは違った方向で自分に無理しているから、とりあえず「好きなことして生きてやるぜ」っていう結論に至る。
そういった開き直りって、楽しく生きるための方法論であって、大切なのは目的論よりも方法論だと思う。実生活で大切なのは、そういった場に自分の身を置いておくことじゃないか。戦略的に自分の精神状態をコントロールしていく方法・手段として。
たとえば毎日アルファブロガーの記事をみて「俺も言及してみよう」とか(まさにこの記事www)
とりあえず「らき☆すたを捨てて、街に出よう」とか
ソープへ行け!