りとすら

書きたいことがあんまりありません

NUDO『タイタス・アンドロニカス/アフタートーク』

「/シリーズ(スラッシュシリーズ)」は、記号消費、シミュラークル社会を抜きにして経済を語ることができない現代社会に「/」を使って記号を分割、統合し「/」で分けられたテーマの間から新たな関係性を見出し、観客に演劇的経験を与えるシリーズ。
「/ 」とは、「分割」「統合」「分子/分母」などの意味合いを持ち、テーマを記号化することで歴史的文脈、本質的価値などを破壊的、創造的に並列にすることができる。
日本に「演劇」という記号を根付かせるための企画。

「日本に演劇を立ち上げる」ことを目的に、演劇が存在しない空間(アフタートーク)からシェイクスピア作品を立ち上げる「タイタスアンドロニカス/アフタートーク」を上演。

NUDOの新作が上演されていました。
小学校の体育館を用いた演劇は、
360度を使用するという意味において
既存のコヤにしばられない
面白さがあった。
まぁ、声は聞こえないしセリフ噛みすぎだったけど。



HPや、映画のパンフ、漫画・小説の後書きで、
言い訳みたいに構造だとか語るのは、
すごくムカつくし、マナー違反だと思うんだけど
まあ、大目に見ましょう。
つか、この前書きみないと、
今回の公演って理解できないと思うんだけど。
普通の人はここまでやってくるとは思わない。







よこた曰く、
「すべてを『現象』にしたかった。
テレビで番組やってても、それって光の粒が映しこまれてるだけで
とくに意味なんてないじゃん。
そういうことなんだよ。」


今回の舞台は、そういうことだったらしい。
舞城王太郎九十九十九と同じく

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

メタ舞台だといえるだろう。


はじめ、1分少々でシェイクスピアの「タイタス・アンドロニカス」が上演され、
舞台挨拶のように、アフタートークが進行する。
「ぼくは演出家のやりたかったことがまったくわからなくて」
と言う出演者。すぐそこに、演出のよこたがいるのに。


とつぜんのアフタートークは、またタイタスに引き戻される。
めまぐるしく展開される場面展開。
ときおりシンクロする、タイタスとアフタートーク。


ダブルミーニングのアフタートークとは
公演の終了舞台挨拶とタイタスのアフタートークとして
おぼろげに気持ち悪くたち上がってくる。まるで幻影のように。
メタにメタをかさね、ぼくら観客は置いてけぼりになる。
しかし、そこも劇構造の一部。完成された「現象性」に回収されていく。


終末が近づき、プロジェクターからメッセージが投影されるようになる。
それはエアロン。タイタス・アンドロニカスの原典において、重要なキャラクターである。
それがプロジェクター上に立ち現れる。
メタを重ねていった先に、投影される「現象」







畳み掛けるように、「よこた」の恋の話が投影されるようになる。
虚構化されたなかで、個人的なセカイの話が繰り広げられる。
舞台上では対照的に、
シェイクスピア全作品中、最も残虐で暴力に溢れているという点で異質な戯曲
「タイタス・アンドロニカス」が繰り広げられ、
虚構的でうそ臭いアフタートークか撒き散らされる。






ここで観客は気づく。
一番真実だったはずのタイタスに、
プロジェクターのエアロンがでてくるとはどういうことだ。と。
はじめの一幕をせっかく頭の中から追い出していたのに。



観客は、またしてもおいていかれる。
「タイタス」と「よこた」という
いちばんくっついてはいけないものが「接着」されることにって
虚構はますます現実味を失い、
その巨体をわれわれに投げ渡す。
われわれはただ受け止めるしかない。
その「現象」を。





シェイクスピアの最大の悲劇も現象になり、
池袋前で起こる戦争も現象になり、
よこたも現象と化す。




「メタ演劇」を確立した作品。











でも、やっぱり。
こんどは、
わかりやすくて面白いもの、見たいな。

それで僕の場合どうなのか、って話ですけど、
やっぱり「自分のため」に演劇をやっているわけです。
んでもって、もっと踏み込んで言えば、去年別れて会えなくなった好きだった女性に対して演劇をやっている。
僕(もしくは、演劇をやっている人)にとって
現実なんていうのはつまらなくて、退屈で、くだらないものに見えると思います。
みんな現実がくだらないから、演劇をやっている。