りとすら

書きたいことがあんまりありません

ひさしぶりに衝撃をうけたよ

「社会には共同生活が必要だとかいう幻想はいちはやく捨てちまうんだ。
だって他人の目ばかり気にして、引っ込み思案に陥って自分が萎縮するのは、
人生なんとも勿体ないじゃないか。
もっと自分の欲しているのは何かを見極めて思う存分にやってみろよ」
相手を元気づけるために言ってやった言葉は、余り効果がなかった。
―――『レインボー・ドッグスー明日への挑戦状』より

中原昌也は、文脈を千切っていく。それも完膚なきまでに、意図的に。
話のつながりをことごとく断片化することによって
読者に思考させる隙を与えない。
記号化されちりばめられた暴力の数々。
それらは全体としても何かを意味しない。また意味しようとしない。


記号化された暴力と分節化された文脈。
それは、こうして批評的な「語り」されることを拒否する。
そう、中原昌也は「語れない」意味においてしか語ることができないのだ。


分節化された文脈といえば、
何も事件が起きないという意味において
小説という物語形式に反旗を翻した保坂和志がうかんでくるだろう。

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

同じことが同じように繰り返されていて、
本質的な成長だとかの「ロマン」を放棄した作家としての共通項がある。


分節化された話者というのは、
私たちの日常生活を正確に切り取ろうとしたときに起こる。
われわれは普段、つねに友達と同じ話題について追いかけあっているわけではない。
新しい共通の話題が、立ち消えを繰りかえす。
それぞれ話題は一時の感情による、其の場しのぎだったり、
とても大切な永続する話題だったりする。
しかし、そのどちらも表層的にはわからない。重要であるか、陳腐であるかわからない。
つまり、たいていの話題は、すごくどうでもいいんじゃないか。
話題を進めることじゃなくて、
なんとなく空気を感じることができていればいいんじゃないのか。
それが、この両者の提示する、新しい「小説」なんだろうと思う。


軸を失わせる(失わせた)作家、中原昌也
続いていく永遠、保坂和志
それは、どちらも日常だ。ぼくらの至極まっとうな日常だ。