りとすら

書きたいことがあんまりありません

『ゲーム的リアリズムの誕生』

東浩紀動物化するポストモダン』の二巻目を読み終えた。

 2004年のコミケにて配布していた「2004年で祭りは終わった」という内容のビラを読んでいる者として、それ以降の東浩紀にはあまり関心を払わないでいた。「この男は、もう死んだんだな」と思ったからだ。


 思想家して、評論家として、東にはパッションが足りない。
 学者に必要なものはロジカルな頭ではなくて、現実を変えていこうとするパッションであると考える僕にとってはそれではダメだ。その意味では大塚英志はきわめて政治的なので好き。


 本書では『動物化するポストモダン』とは毛色が違い、ポストモダンの「文学」を再考するものである。
 自然主義的な「現実との往復の間にある批評」では、現代のライトノベルを中心とする「記号をちりばめた作品群」を評価することができない。売れているものが評価されず、いまだに文学は「純文学」を夢想している。


 だが、それは真実ではないのではないか。たとえ記号的なものであろうと、それを評価するシステムを作り上げることによって現実を照らし合わせることができる。


 東はこのような動機のもとに「自然主義的」評論ではなく、「構造的」評論を仮想する。「作者が意図したものであるにせよ、そうでないにせよ、批評する事が可能になる」枠組みを作り上げる。
 だが、その新しい枠組みも「ブログ論壇」や波状言論関係者の極めて閉鎖された環境のもとで生み出されたものにすぎず、勉強不足が感じられてしまう。



 じゃあ、この本はなんなのかといえば「諦めた東が、ムリヤリにでも仕事を続けていくために仮想したロジックなのではないか」と。



 2004年で祭りは終わり、夢から覚めた東浩紀は再び夢に戻っていく。それは第二世代オタクが「やはり、こうしか生きられなかった」オタクであることを象徴するように。さぁ、どうするよ東浩紀。あなたの祭りも終わってしまうのですか。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)