りとすら

書きたいことがあんまりありません

新しい日々だけが来ればいいのに

ぼくの歌詞には、「許せないやつはやっぱり許せない」と、
明確に言ってしまう卑屈でリアルな姿勢があります。
決して見習うべき姿勢ではないのですが、
それは仕方のないことだと思うのです。
いじめた側には、痛みなど理解できないのですから。
スガシカオ

最近、日常の不毛な連続性。
そして非情な連続性について思いをはせることがよくある。
RADの「夢番地」を聞いてるときなんてまさしくその通りなんだけど
TVドラマの「シーンで切り取る」姿勢ってのには
どうしても共感を覚えられない。


僕らは日常的な連続性の上で生きている。
日々は意味があるにせよ、ないにせよ続いていく。
尊い先祖からの系譜があり意味があるんだねって感情と、
不毛な「連続」のなかに取り残された感情の
相異なる2つの感情がせめぎあう。


僕らの明日は「終わりなき日常」で
宮台真司にしてみれば「終わりなき日常を生きろ」って
ひとことで切り捨てられる。