りとすら

書きたいことがあんまりありません

記号消費

確か、高校三年のときにコウとまぁくんあたりと
消費活動についての簡易な往復書簡をした事があったんだけど、
俺が「社会的意味」による消費という概念を書き込んでいた気がする。


ボードリヤールって社会学者がいて
「記号消費」ってタームによって説明されてる概念を
高校3年で気付いてたらしい。


今日の西本ゼミで記号消費について
ブランド物に踊らされている
ブラッドピットの「ファイトクラブ」を見て
頭にこびりついてたんだけど
そのことを思い出してすっきりした。


しかも、授業後にうっちーと新宿のマルイをぶらついていたら
余計に記号消費的なニュアンスが出てきて
自分の行動の根幹が揺るがされる気がして気持ち悪かった。



モノには自然界の言う物質的価値、
経済界の言う付加価値、
社会学の言う社会的価値の三位相があって、
高度に文明化された社会ではモノの「社会的意味合い」が強くなる。


高度なコミュニケーションツールとして
「あ、タグホイヤーなんだ」
「うん、買ったんだよ」
「おれさぁ、フランクミューラー欲しいんだよね」
この三行に、そのブランドのもつイメージが高濃度に凝縮されているんだけど
それが関係ない人には関係ない。
興味がない人とは言語の共有が出来ない。


そういった文脈で消費しつづけていくんだろうなぁ。たぶんこれからもずっと。
でもコウは違う。社会的ブランドの価値に踊らされるわけない。
そういった往復書簡だった。


それはディスコミュニケーションであって、
どちらかが罠に落ちているわけではない。
違うコンテクストで人間が生きていく証拠。