りとすら

書きたいことがあんまりありません

ゆれる

オダギリジョー主演「ゆれる」を見てきました。

写真家の猛は、母の一周忌で帰郷した。父と折り合いの悪い彼だが、温和な兄・稔とは良好な関係を保っている。翌日、猛は稔、そして幼馴染と智恵子と渓谷へと向かった。智恵子が見せる「一緒に東京へ行きたい」という態度をはぐらかして、一人で自然へカメラを向ける猛。そんな彼がふと吊橋を見上げた時、橋の上にもめている様子の稔と智恵子がいた。そして次の瞬間、そこには谷底へ落ちた智恵子に混乱する稔の姿だけがあった…。


兄の心の暗部に触れて湧き上がる感情を、時に繊細に、時に激しく演じるオダギリジョー。感情を抑えつつ、わずかな表情と身体の動きで心のゆらぎを表す香川照之。彼らの素晴らしい演技は、作品の骨格として確かに機能している。(以上gooより引用)

自分が実際に兄だということもあって、
実体験としての「兄弟の間にだけ存在する腐れ縁」というのに共感を覚える。
切っても切れないものなんだよ、兄弟って。
口では散々酷いこと言って、さんざん喧嘩して、関係は最悪に見えても
見えないところではお互いのことを認め合ってるから
相手に踏み込めない。


そう。全ては弟(オダギリジョー)の勘違いから生まれた結果なんだ。
兄はすべて見通していた。だってさ、弟が帰ってきちゃうんだよ。
あんな慣習にしばられた世界に。
それこそもう、獄門島かよってカンジで因縁と慣習と衆人の目が気になる田舎。
ちょうど、俺の田舎が京都にあるんだけど、親父が東京に出てきたことについて
責任を感じているようなフシを時々見かける。家を継ぐだとか、東京でるだとか。
そういうハナシを現実の日常として行っている田舎に。


弟は田舎において異邦者に終始する。
学園ドラマの転校生と違っているところは、古くからの傷口を顕在化させてしまうところ。
幼馴染の女の子は、弟が出て行ってからも、弟の残滓を追い求めていた。
寝床におかれている、弟の写真集。


でも、弟は無頓着に掻き乱してしまって、女の子と寝ちゃうんだ。
それはもう、どうしようもないこと。
一度剥がしたかさぶたは、時間がたつまでほうっておかないとならない。
でも兄にばれちゃってるんだ。そういった企みっていうのは。
何年兄弟やってきたと思ってるんだよ。


田舎の因習の視覚化は弟に混乱しかもたらさない。
映画の前半。弟は必至に自意識を保とうと兄を庇う。
「兄貴は殺してなんかいない」と主張する。謎の必至さを伴って。


そこで兄に言われる。
「人殺しの弟になるのが嫌なんだろ」と。
弟は自分の恐れていたことを話し、兄は有罪になる。


ここで終わってしまっては、観衆が弟の自意識に引きずられたままであるけれど
7年後の描写がでてくる。
弟は兄の出所を迎え、たまたま子どもの頃のテープを見て思い出す。
「あの時も、手を伸ばしていたじゃないか」


「誰の目にも明らかだ。最後まで僕が奪い、兄が奪われた」
全てに気付いた弟は、兄の下へ車を走らせた。


兄弟というものはいつか分かり合えるものなのでしょうか。そうだと嬉しいのですけれど。