りとすら

書きたいことがあんまりありません

オイディプス症候群

19だよ、19。きゃは。19といえば何が変化するんだろうね。まー、なにも変化しないけど。エロ本買うときのドキドキ感なんてとっくのとうになくしちゃったし・・・

とここで「誕生日までスタンドアローンコンプレックスを噛み締める!?」の第四回を華麗にはじめることにするよ。俺は。華麗に。「孤独に歩め、悪を為さず、求めるところ少なく、林の中の象のように」

第一回「ケータイという名の現代病」
第二回「mixiなどのソーシャル・ネットワーキングは思考の並列化を生むか」
第三回「オリジナルの不在がオリジナル無きコピーを生み出してしまう」

第四回「親の模倣子と子のゴースト形成の関係性」
というわけで、親と子について考えてみようかと。
人間ってのは生れ落ちてからの環境因子の影響が、その後に及ぼす影響は他の生き物より大きく、その7割を占めるっていう研究が教育の現場で必死に唱えられている。狼少女の逸話は嘘だった(にもかかわらず、授業に使われているというプロパガンダ…滑稽)けど、知能の生前説と生後獲得説ならば、俺は生後獲得説を支持する。俺はデュランダルのディスティニープランなんて全く信じていない(だからSEED destinyは嫌い)し、才能至上主義でもない。環境によって獲得できる才能が違うし、ゴーストも違ってくるはずだと考える。

その環境因子重視側として言えば「親ってのはデカイ存在だよね」ということ。やっぱさぁどうあがいても親っていう縦の縛りからは抜け出せそうにないんだよね。スタンドアローンに成りえない(「親離れ」できない)ゆえに、コンプレックスに成りえるっていう逆説。(通常のSACの解釈では「無い」がゆえに「有る」を幻視する)

親から離れようとしても、環境因子のでかさゆえに自分自身のゴースト深くに染み付いて離れないその匂い。だからこそ全ての人間は親に愛されたいって言う欲求をもつ。なぜならそれは自己愛と他者愛(厳密な意味のソレではないが)の混じった濃密な愛であるから。そこに発展的な他者性がないから、重要性は低いけどね。

「親孝行するなら今のうち」 それと同時に、「親のスネは齧れるときに齧っとけ」