りとすら

書きたいことがあんまりありません

二次創作思念体

今日、吉祥寺ぶらぶらしてたら、スカウトの人に声を掛けられた。そんな気ないように振舞ったけど滅茶苦茶興味アリ。おっけーして面接だけ受けてみるかね、俺の退屈を壊すなにかがあるかもしれんし。(http://hoei.of.am)どーにかなるでしょや。 

んでまぁ、「誕生日までスタンドアローンコンプレックスを噛み締める!?」と称してみたもののすでにネタ切れ感が漂ってるわけで、今回で第三回。
第一回「ケータイという名の現代病」
第二回「mixiなどのソーシャル・ネットワーキングは思考の並列化を生むか」
と来て、次は何かと考えると、
「オリジナルの不在がオリジナル無きコピーを生み出してしまう」かね、やっぱり。
とすると当然、ラヴクラフトを連想するよね。そうそう「クトゥルー神話
ま、この場合、オリジナルあるけど。

もとはといえば「オリジナルの不在がオリジナル無きコピーを生み出してしまう」ってのはコンセンサスの存在を否定することによって生まれえる概念だといえるよね。「正しいもの」ってのがない(オリジナルの不在)から、俺こそが「正しい」と各自思う状況(オリジナル無きコピー)を生み出しちゃう。これはまったく温かさがない、冷え切った世界であるわけで酷くつまらない。

オリジナルはあるか、ないかってのも「あやつり問題」っぽくて面白いよね。はたして「我思うに、我あり」って正しいのか??っていう。疑う自分は誰かに操られているだけで、オリジナルの意思なんて存在していないっていう疑惑。懐疑論っぽく陥ってしまう罠。

オリジナルを否定することも「オリジナルの不在」を生み出すことだとしたら、それはそれで新たな問題提起だったりする。本当はオリジナルの情報があったはずなのに、情報のひとり歩きによってオリジナル無き二次創作(コピー)が為されてしまうわけだ。それはコミケの同人誌の集積にも言えるんだよね。情報のつぎはぎによってオリジナル無きコピーを産み出すんだ。

オリジナルの存在を確認する必要があるのか、ないのかってのも、よくわからない問題だけれど。