りとすら

書きたいことがあんまりありません

ハラウェイ

ハラウェイの元ネタ発見。

ダナ・ハラウェイ


サイボーグ──我々の敵対するものではない存在としてのサイボーグ──の想像力をシリアスに受けとめると、いくつかの結論が導かれる。我々のからだは我々自身のもの(our Bodies, ourselves)──身体は、権力とアイデンティティの地図である。サイボーグとて、例外ではない。サイボーグの身体は無垢ではない──サイボーグは楽園に生まれたわけでも、一体性としてのアイデンティティを求めているわけではなく、相対立する二項対立をはてしなく(要するに世界が終わるまで)生成するわけでもなく、アイロニーを当然のものとして受けとめる。一つは少なすぎるし、二つというのは一つの可能性にすぎない。スキル、それも機械のスキルを目一杯楽しむことは、もはや罪ではなく、事物が具体的なかちをとる過程の一つの側面となった。機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。我々は、各種の機械に対して責任ある存在となることができる──機械たち(they)は我々を支配するわけでも脅かすわけでもない。我々は境界に対して責任ある存在であり、我々が境界なのである


オシイは実際にこの女性と会っている(イタリアにて)